1959年 福島県の農家の長男として生まれる。
1970年、それまで近代農業をしていた両親は「作物の見てくれを良くし、お金のために、土を劣化させる化学肥料を環境と人間の体に害のある農薬を使うのは、人間の生命を根底から支えるべき農の倫理に反すことである」という反省から、農薬化学肥料を一切使わない有機農業に転換し、全ての食べ物を作る自給自足をベースにし、余剰の生産物を消費者に直接販売する産直提携を始める。
1975年、両親が所属していた愛農会が三重県伊賀市に創設した全寮制の愛農学園農業高校に学ぶ、「人間生活の根底を支える農を誇りとし、自然の摂理に沿って、食・住・衣の生産に精進しよう」という愛農の精神に感銘をうけ、農をライフワークにすることを決心する。
.......
1978年、愛農学園を卒業後、自転車で全国の有機農業者を訪ねる旅をした後、福島の父母の有機農園の後継者として有機農業に従事する。しかしながら、79年ごろより、インドシナ難民、ボートピーブル、エチオピア飢餓の状況が日本でもクローズアップされるようになり、「難民の時代」と呼ばれる。世界にある飢え、貧困、争いと自分の日々の生活にある隔絶に、疑問を感じ、中学生の頃からしたいと思っていた海外協力の道に進むことを決心し、インドにあるガンジー・アシュラムに、有機農業を教えるボランティアとして行くことを決め、80年4月に父母の有機農園を出る。
1982年、インドにゆくための二年間の準備を経て、4月にインドへ。ビハール州ブッダガヤにあるガンジーアシュラムにボランティアとして1年間滞在する。ブッダガヤは仏教の始祖の釈迦が悟りを開いて仏陀になった聖地であるが、乾季には気温が45℃を越え、川の水は干上がり、荒涼とした地であった。しかし、2千5百年ほど前に釈迦が悟りを開いたときは、豊かな水を湛えた大河と広大な森と緑豊かな農村があった。「なぜ?」と問い続けるなかで、人間の始めた農耕と都市が自然を破壊し、砂漠化を招いていること、本来、最も豊かな土地であった四大文明の地が全て砂漠・荒野になったことの意味を悟る。「なぜ人間が始めた農業が自然を壊してしまうのか」「自然を壊さずに人間に十分な食べ物を与えてくれる自然の理に沿う農業とはどんなものか」この二つの問いから、人間がこの地球上で持続的に生きることができる農と生き方を見つけたいという思いを持って、海外協力の道に進むことを決心する。
1985年からバングラデシュに6年間、1996年からタイに5年間、他、ベトナム、ラオス、カンボジア、マレーシア、ミャンマー、ネパール、エチオピア、南アフリカ、ジンバブエ、などで、民間海外協力団体(NGO)を通して自然農業の普及と持続可能な農村開発の活動に関わる。
2002年、日本に帰国、福島県飯館村に農地を求め自然農業をはじめる。二十年間の海外協力の活動の中で心に刻まれた「自然を壊さない農の在り方」、「世界で弱い立場にある人々から奪わない生活の在り方」をモットーとする「なな色の空」と名付けた自然農園を始める。地球の上で本当の意味での持続可能な生き方を探求しつつ学ぶための、自然農、自給自足をベースにした学び舎と、エコロジカルなコミュニティーづくりを目指す。
2011年3月11日、深夜、東日本大震災による、福島第一原発の全電源消失を知り、次に起こるだろうメルトダウン、水蒸気爆発を予想して、その日の深夜、飯舘村から避難し山形、静岡を経て3月16日に三重県伊賀市の愛農学園に避難し、愛農会と協力し同じように避難してくる人々のための臨時避難所を設置、その責任を持つ。
2012年、三重県津市美杉町太郎生にある池の平高原に、耕作放棄地をみつけ、放棄地の再生をして農地に戻し、2013年から、学び舎としての自然農園「なな色の空(現:池の平自然農園)」を再開する。
2014-16年、AFA (Asian Farmers Association)議長、2016-21年、全国愛農会・会長、2019〜現在、家族農業プラットフォーム・ジャパン代表
2017〜現在、三重県多気町「VISON」にオーガニック農園を作ってほしいとの要請を受け、Soil to Table, Table to soilをコンセプトとした農園とレストラン、VISONノウニエール農園の計画、立案、デザイン、運営の監修。
1959年 福島県の農家の長男として生まれる。
1970年、それまで近代農業をしていた両親は「作物の見てくれを良くし、お金のために、土を劣化させる化学肥料を環境と人間の体に害のある農薬を使うのは、人間の生命を根底から支えるべき農の倫理に反すことである」という反省から、農薬化学肥料を一切使わない有機農業に転換し、全ての食べ物を作る自給自足をベースにし、余剰の生産物を消費者に直接販売する産直提携を始める。
1975年、両親が所属していた愛農会が三重県伊賀市に創設した全寮制の愛農学園農業高校に学ぶ、「人間生活の根底を支える農を誇りとし、自然の摂理に沿って、食・住・衣の生産に精進しよう」という愛農の精神に感銘をうけ、農をライフワークにすることを決心する。
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1978年、愛農学園を卒業後、自転車で全国の有機農業者を訪ねる旅をした後、福島の父母の有機農園の後継者として有機農業に従事する。しかしながら、79年ごろより、インドシナ難民、ボートピーブル、エチオピア飢餓の状況が日本でもクローズアップされるようになり、「難民の時代」と呼ばれる。世界にある飢え、貧困、争いと自分の日々の生活にある隔絶に、疑問を感じ、中学生の頃からしたいと思っていた海外協力の道に進むことを決心し、インドにあるガンジー・アシュラムに、有機農業を教えるボランティアとして行くことを決め、80年4月に父母の有機農園を出る。
1982年、インドにゆくための二年間の準備を経て、4月にインドへ。ビハール州ブッダガヤにあるガンジーアシュラムにボランティアとして1年間滞在する。ブッダガヤは仏教の始祖の釈迦が悟りを開いて仏陀になった聖地であるが、乾季には気温が45℃を越え、川の水は干上がり、荒涼とした地であった。しかし、2千5百年ほど前に釈迦が悟りを開いたときは、豊かな水を湛えた大河と広大な森と緑豊かな農村があった。「なぜ?」と問い続けるなかで、人間の始めた農耕と都市が自然を破壊し、砂漠化を招いていること、本来、最も豊かな土地であった四大文明の地が全て砂漠・荒野になったことの意味を悟る。「なぜ人間が始めた農業が自然を壊してしまうのか」「自然を壊さずに人間に十分な食べ物を与えてくれる自然の理に沿う農業とはどんなものか」この二つの問いから、人間がこの地球上で持続的に生きることができる農と生き方を見つけたいという思いを持って、海外協力の道に進むことを決心する。
1985年からバングラデシュに6年間、1996年からタイに5年間、他、ベトナム、ラオス、カンボジア、マレーシア、ミャンマー、ネパール、エチオピア、南アフリカ、ジンバブエ、などで、民間海外協力団体(NGO)を通して自然農業の普及と持続可能な農村開発の活動に関わる。
2002年、日本に帰国、福島県飯館村に農地を求め自然農業をはじめる。二十年間の海外協力の活動の中で心に刻まれた「自然を壊さない農の在り方」、「世界で弱い立場にある人々から奪わない生活の在り方」をモットーとする「なな色の空」と名付けた自然農園を始める。地球の上で本当の意味での持続可能な生き方を探求しつつ学ぶための、自然農、自給自足をベースにした学び舎と、エコロジカルなコミュニティーづくりを目指す。
2011年3月11日、深夜、東日本大震災による、福島第一原発の全電源消失を知り、次に起こるだろうメルトダウン、水蒸気爆発を予想して、その日の深夜、飯舘村から避難し山形、静岡を経て3月16日に三重県伊賀市の愛農学園に避難し、愛農会と協力し同じように避難してくる人々のための臨時避難所を設置、その責任を持つ。
2012年、三重県津市美杉町太郎生にある池の平高原に、耕作放棄地をみつけ、放棄地の再生をして農地に戻し、2013年から、学び舎としての自然農園「なな色の空(現:池の平自然農園)」を再開する。
2014-16年、AFA (Asian Farmers Association)議長、2016-21年、全国愛農会・会長、2019〜現在、家族農業プラットフォーム・ジャパン代表
2017〜現在、三重県多気町「VISON」にオーガニック農園を作ってほしいとの要請を受け、Soil to Table, Table to soilをコンセプトとした農園とレストラン、VISONノウニエール農園の計画、立案、デザイン、運営の監修。